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戦時の知られざる戦争遺産 住民有志が案内
太平洋戦争末期に空襲から蒸気機関車を守るため、
滋賀県米原市のJR米原駅近くに造られた
「蒸気機関車避難壕(ごう)」を住民有志が案内する活動を続けている。
5年前まで地域のごみ捨て場になり埋まっていた壕を戦争遺産として残し、
平和学習などに役立てようと復元改修した。
見学者は2009年8月から5年間で3600人を超えた。
米原駅は、大動脈だった東海道線と北陸線の分岐の駅で、
壕は、兵員や武器輸送に欠かせなかった蒸気機関車を連合軍の攻撃から
守るために建設された。
1944年3月から6月にかけ工事が着手されたといわれている。
詳細は事前申し込みが必要。
問い合わせは藤本さんTEL0749(52)1830。
[滋賀の悲話]
画像をクリック!!
近江八幡市 全国で唯一 離島指定 された「沖島」です。
なんとなく不思議な島 でもれっきとした琵琶湖の離島です。
住んでいる人には観光で来られた人のモラルを
危惧する一面もありますが
全国に知ってもらえるチャンスでもあります。
住民の気持ちに立って是非一度お越しください。
「画像をクリックしてください。沖島の風景が映し出されます。」
竜舌蘭(リュウゼツラン)
「リュウゼツラン科」日本では葉の形状が竜の舌に連想させる
ことから竜舌蘭と呼ばれている。
高さは約」10メートルくらいになり、
30~50年に一度しか咲かない幻の花です。
この写真は昨年(2012年)9月5日に
守山市ハ-ブ、バラ園にて撮影しました。
(次回は数十年後です)
「妓王」は平家の家人・江部九郎時久の娘。
近江国祇王村(現・滋賀県野洲市)に生まれる。
生誕の地には妓王の菩提を弔うために建てられた妓王寺が現存する。
母の刀自、妹の妓女とともに、京都で有名な白拍子となり、平清盛に寵愛された。
『平家物語』(第一巻 6「祗王」)に登場する。
干ばつで苦しむ故郷の村人を救うために、
生まれ故郷の野洲に水路を作るよう清盛に頼んだ。
そして、その川は祇王井川と呼ばれ現存する。
やがて清盛の寵愛は自らがとりなした仏御前に移り、
彼女の慰め役までやらされるという屈辱を味わわされ、自殺を考えるまでに至る。
しかし、母の説得で思い止まり、母の刀自、妹の妓女とともに
嵯峨往生院(現・祇王寺)へ仏門に入る。
当時21歳だったとされる。
祇王寺にある碑には「性如禅尼承安二年壬辰八月十五日寂」とあるが、
その「性如禅尼」は妓王の事を指すとされており、
承安2年8月15日(1172年9月4日)に死去したとされている。
「祇王忌」は旧暦2月14日とされ、春の季語になっている。
2013年4月20日、午後3時~6時まで開催されました。
国歌「君が代」に記されている「さざれ石」
多賀大社の境内に祭られている、「さざれ石」の由来
「君が代は、千代に八千代に、さざれ石の、巌となりて、苔のむすまで・・・」
この石は通称、さざれ石といわれ岐阜県春日村産。
古今集に天皇の大御代の弥栄を
寿ぎ祈り、この石の如くましませと詠われ、
後に一部改作されて日本の国歌になりまし
た。学名は石灰質角礫岩で、
長い年月の間に溶解した石灰石が多くの小石を終結して
次第に大きく成長したもので、誠に目出度い石であります。
この石は岐阜県揖斐川町の小林宗一翁がはじめて発見したものです。
滋賀に活性を!「ローザンベリー多和田」
オーナー大澤恵理子氏は八ヶ岳にてガーデナー、ポール・スミザー氏に学び
2003年に家事、育児の専業主婦として米原市多和田の地に庭造りを始め、
人と自然の関係の深さを実感し、農業の尊さと、自然の素晴らしさを伝えたく
2011年、体験型農業公園・ローザンベリー多和田を開園しました。
この滋賀の五感で感じる自然の癒し・美しい山々や庭。木々の揺れる音や
小鳥のさえずり。季節ごとに移ろう花の香りや木の匂い。とれたての野菜や
果実の味わい。動物や自然に触れる温もり。
滋賀の自然を大切に生かそうとしている大澤氏には偉大な感銘を受けました。
春には特集を組みたいと楽しみにしています。
Hp : 「ローザンベリー多和田」で検索 http://www.rb-tawada.comで!
近江商人(おうみしょうにん、おうみあきんど)または江州商人(ごうしゅうしょうにん)、
江商(ごうしょう)は、主に鎌倉時代から昭和時代(特に戦前期)にかけて活動した
近江国・滋賀県出身の商人。大坂商人・伊勢商人と並ぶ日本三大商人の一つである。
現在でも俗に、滋賀県出身の企業家を近江商人と呼ぶことがある。
通常、近江国外に進出して活動した商人のことを近江商人と言い、
活動地域が近江国内に限定される商人は「地商い」と呼ばれて区別された。
愛知郡(愛知川・枝村)、蒲生郡(八幡・日野)、神崎郡(五箇荘・能登川)などの出身者が多数。
なかでも得珍保(延暦寺領荘園)を拠点とした保内商人の活動が近江商人の前駆となっている。
初期の頃は京都・美濃国・伊勢国・若狭国などを中心に行商を行っていたが、
徐々に活動地域や事業を日本全国に拡大させ、中には朱印船貿易を行う者も現れた。
鎖国成立後は、京都・大坂・江戸の三都へ進出して大名貸や醸造業を営む者や、
蝦夷地(現在の北海道)で場所請負人となる者もあった。
幕末から明治維新にかけての混乱で没落する商人もあったが、
西川産業のように社会の近代化に適応して存続・発展したものも少なくない。
今日の大企業の中にも近江商人の系譜を引くものは多い。
その商才を江戸っ子から妬まれ、伊勢商人とともに「近江泥棒伊勢乞食」と蔑まれたが、
実際の近江商人は神仏への信仰が篤く、規律道徳を重んずる者が多かった。
様々な規律道徳や行動哲学が各商家ごとに家訓として残されていた。
成功した近江商人が私財を神社仏閣に寄進したり、地域の公共事業に投資したりした事例は数多くある。
当時世界最高水準の複式簿記の考案(中井源左衛門・日野商人)や、
契約ホテルのはしりとも言える「大当番仲間」制度の創設(日野商人)、
現在のチェーン店の考えに近い出店・枝店の積極的な開設など、
近江商人の商法は徹底した合理化による流通革命だったと評価されている。
[近江商人の思想・行動哲学三方よし]
「売り手よし、買い手よし、世間よし」
売り手の都合だけで商いをするのではなく、買い手が心の底から満足し、
さらに商いを通じて地域社会の発展や福利の増進に貢献しなければならない。
三方良しの理念が確認できる最古の史料は、1754年に神崎郡石場寺村(現在の東近江市五個荘石馬寺町)の
中村治兵衛が書き残した家訓であるとされる。
ただし、「三方良し」は戦後の研究者が分かりやすく標語化したものであり、
昭和以前に「三方良し」という用語は存在しなかった。
[始末してきばる]
「始末」とは無駄にせず倹約することを表すが、
単なるケチではなくたとえ高くつくものであっても
また「きばる」とは本気で取り組むこと。
[利真於勤 ]
利益はその任務に懸命に努力した結果に対する「おこぼれ」に過ぎないという考え方であり、
営利至上主義の諫め。
[陰徳善事 ]
人知れず善い行いをすることを言い表したもの。自己顕示や見返りを期待せず人のために尽くすこと。
「近江商人の流れを汲むとされる主な企業 」
高島屋
トヨタ自動車
伊藤忠商事
丸紅
トーメン
ニチメン
ヤンマー
西武鉄道
日清紡
東洋紡
東レ
日本生命
ワコール
西川産業
武田薬品工業
ツカモト
白木屋(1967年に東急百貨店に吸収)
三中井百貨店(1945年の終戦とともに消滅)
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